2012年4月15日日曜日

亀山古墳と飛坂神社(本島 甲生)

本島の甲生地区、亀山に亀山古墳と飛坂神社があります。
甲生の海岸沿いの道路を東に歩きつきあたりに
飛坂神社の石柱があります。
そこから山に上がっていくとお椀をふせたような頂上に
到達します。そこを亀山古墳といい、祠を飛坂神社と
呼んでいます。その昔、源平屋島の合戦の時、敗れた
平家が壇ノ浦に落ち延びる際、この本島 甲生に一時
寄りました。その際、女、子供、老人をこの島の長たちに
預け、本隊は壇ノ浦に向かいました。長たちは対岸の
乃生の浦に夜陰にまぎれかくまったと言います。
その後、戦死者たちをこの亀山に葬り代々弔ってきました。
少しまえに古墳を発掘した際、人骨や勾玉などが
出てきたそうです。また子供の骨もあったとのことです。
このことから、いろいろな伝説に近いような話がつたわっています。
それは、次回に。

                         飛坂神社の石柱



古墳の頂上にある



2012年3月16日金曜日

法然上人ゆかりの寺院です

鎌倉時代初期、浄土宗の祖、法然上人」は、今までの仏教の
むつかしい教義や修行をしなくとも「南無阿弥陀仏」と唱える
だけで極楽往生できると説き庶民に爆発的に広まっていった。
これを良しとしない旧来の仏教界、貴族のねたみを買い、讒言
から罪を負わされ、1207年土佐に配流されることになった。
前の関白九条兼実は高齢の上人を気遣い自分の荘園であった
この塩飽に送った。当時この塩飽の笠島城の館にいた地頭の
高階保遠は法然上人を深く尊敬していたので上人を歓待し、
この地に庵を建て、島人を集め説教をし、教えを広めた。
数か月の後」丸亀に発たれたが、その際島人が嘆き悲しむの
見て、宝物を(金剛仏、木鉦、名号石)を残された。その後
1598年徳誉道泉という僧が、この庵の後に建てたのが
この專称寺である。なお本島には浄土宗の寺院が他に
来迎寺がある。



2012年3月15日木曜日

笠島町並み保存地区

本島の笠島地区が重要伝統的建造物群保存地区に
指定されたのは昭和60年でした。全国で20番目、
四国で2番目の指定でした。笠島は笠島城の城下町
として発展してきました。建物の特徴として、むしこ窓
千本格子、持ち送り、矢来等があります。ツシ2階建で
養蚕の作業場にも使われました。
なお良く尋ねられるのですが、笠島は島ではなく地区名です。
ゆったりと散策できます。

                    笠島町並みの屋根群




このポストは現役です



軒を支える「持ち送り」




真木(さなぎ)邸
邸内は見学できます
200円(大人)




東小路

2012年2月12日日曜日

年寄の墓

本島には年寄の墓がいくつかあります。
年寄といっても一般に」言われる年寄では
ありません。戦国末期から江戸時代を通じ
明治維新までこの塩飽を治めてきた権力者
たちの職制をいいます。
豊臣、徳川から優れた操船技術を認められた
船方衆に塩飽の自治が許されました。
そのリーダー達のお墓です。逆修塔で生前に
建てられます。
下の写真は吉田家の墓で塩飽で江戸中期まで
宮本家と並んで大きな力を発揮しました。


2012年1月31日火曜日

本島泊寺山経塚

本島天理教大教会の裏山に寺山経塚があります。
廃寺長楽寺山の頂上にあります。
経塚は釈迦の滅後56億年後、弥勒仏がこの世に
現れるまで経文を筒にいれて埋納し保存したものだ
そうです。
寺山経塚からは経筒のほか胡州鏡、青磁の合子などが
出土しました。塩飽は中世から中国との交流があり
経済力と文化・教養が高かったことがうかがわれます。
これら出土品は塩飽勤番所に展示されています。

                夏は草が茂りほとんど隠れて見えない



勤番所に展示されている
左が経筒



2012年1月28日土曜日

本島八十八ヶ所霊場冊子

本島八十八ヶ所霊場の
冊子ができました。


ご希望の方は観光案内所
にて差し上げます。

2012年1月26日木曜日

最後発見!! 本島八十八ヶ所霊場

本島八十八ヶ所、最後まで見つけられなかった
79番を、藪の中、やっと探しだしました。
今まで全然違う方向を探していたようです。
やっと一仕事すんだ気分です。
あとは、地図と一覧表を制作です。



ご希望の方は観光案内所で
差し上げます。ただし手作りです。