鎌倉時代初期、浄土宗の祖、法然上人」は、今までの仏教の
むつかしい教義や修行をしなくとも「南無阿弥陀仏」と唱える
だけで極楽往生できると説き庶民に爆発的に広まっていった。
これを良しとしない旧来の仏教界、貴族のねたみを買い、讒言
から罪を負わされ、1207年土佐に配流されることになった。
前の関白九条兼実は高齢の上人を気遣い自分の荘園であった
この塩飽に送った。当時この塩飽の笠島城の館にいた地頭の
高階保遠は法然上人を深く尊敬していたので上人を歓待し、
この地に庵を建て、島人を集め説教をし、教えを広めた。
数か月の後」丸亀に発たれたが、その際島人が嘆き悲しむの
見て、宝物を(金剛仏、木鉦、名号石)を残された。その後
1598年徳誉道泉という僧が、この庵の後に建てたのが
この專称寺である。なお本島には浄土宗の寺院が他に
来迎寺がある。